面談の結果

面談から帰って来たばかりで、まだ頭がの中が落ち着かないところ。
ためらいもあるのだけれど、今感じていることを素直に書いておきたいと思う。


面談は、何もかもが想像していたのと違っていた。産みの母と会う前にソーシャルワーカと30分程話して、聞いておきたいことの大部分の答えをもらったので、残りは産みの母との面談で尋ねる予定だった。
しかし、面談自体が想像していたのと全然違っていて、なんとも言いがたいのだけれど、産みの母がカウンセリングのセッションと考えていたような感じで、こちらが用意して来た質問をするような雰囲気ではなかった。はっきりさせたいと思いつつ、雰囲気に飲まれて結局言い出せない。夫も私もその点が全く同じ性格なのだ。大切なことなのに。それでもなんとか3つ程は明確に出来たと思う。ただ最も重要で最も知りたかった誕生記録についての回答を得ることが出来なかった。


面談前のミーティングでより詳しい健康に関する情報を聞いたとき、瞬間的に『だめかも』と思った。そしてその気持ちが徐々に膨らんで、もう面談は辞めてこのまま帰りたいと真剣に考えた。どうしよう、なんだか私たち、とんでもないことを決意してしまったのかも...と。
私は多分緊張してコチコチに見えたに違いない。


グループホームは、10代で妊娠してしまった、他に住む所がない未婚のお母さんたち専用の家で、州政府が管理している。想像していたのと全然違い、広々と続く畑の中にぽつんと建っているとてもこぎれいな一戸建てで、現在住んでいるのはケアワーカー二人と、産みの母と息子だけ。室内も整っていて、とても暖かい雰囲気だった。


反抗的な十代の女の子が出て来るのかとドキドキしていたけれど、荒れた過去を感じさせない落ち着いた雰囲気の子だった。産みの母への第一印象は、はっきり言って非常に良かった。そして肝心の子供。
大人たちの間で走り回っている元気そうな男の子が目に入って来た時に、『この子じゃないよね?』と思った。1歳5ヶ月がどのくらいの成長ぶりなのか、分からなかったけれど、赤ちゃんを想像していたため、正直『ああ、もうこんなに大きいんだ』と、戸惑ってしまった。
まだ、はっきりとは話すことは出来なくて、最近『ママ』と何度か言ったくらいと言っていたけれど、明確に自我が成立している。すでに自己と他人、他人と母親との区別がはっきり出来ているようだった。
私たちを見ると、急にテーブルの向こうに隠れてしまって、恥ずかしがって片手で目を抑えたままで、顔を良く見ることが出来ない。そして怖いのか疲れていたのか、その後は泣きっぱなし。ケアワーカーにあやしてもらって機嫌を直していたけれど、やっぱりぐずるので、母親がミルクを与えベッドに連れて行ってしまった。
抱いてみたいと思ったけれど、そのチャンスは無し。その代わり産みの母が、妊娠中と産まれてから現在までのアルバムを沢山見せてくれた。


とても大きくてちょっとだけ太り気味だけれど、元気いっぱいな男の子。恥ずかしがる姿も、あやされて笑う様子も、普通に可愛いと思った。
それでも、『この子が私たちの息子になるのだ』という確信が持てない。誕生記録を見るまでは同意出来ないという思いが強いからなのか? 子供がすでに赤ちゃんというよりは幼児になっているのを実際に目にし、私たち本当に大丈夫なのか?という、とてつもない不安感。夫も全く同じ思いでいるようだった。親になることを楽しみにしながら、実際に子供と会ったことによって、私たちは親になる準備が本当に出来ているのだろうか?という疑問が沸いてしまうなんて。早く子供が欲しいと思ってここまで来たのに、いざとなったら怖くなる。これは普通のことなの?
大丈夫、ちゃんと育てられる、と思う自分と、やっぱり今回の話は無理、と思う自分。本当にどうしたいのか、どうすれば良いのか、会ったら余計に迷ってしまって今すぐ答えを出すことができない。
よく、養子縁組で出会った瞬間その子に『やっと巡り会えたね』とか、『この子が私たちの子になるんだ』という強い確信を持ったという話を聞くけれど、本当に運命の子に巡り会えた時には、迷ったり悩んだり怖くなったりしないものなのだろうか?
こんなに迷うということは、残念ながら運命の子ではないのだろうか。一回会っただけで、運命の子だ!と思う感覚など、本当にあり得るのか?
それとも、どんな子でも運命の子なんだと思えないのは、親になる準備が本当は出来ていないからだろうか。




にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ