産みの母との面会 7

娘の1歳の誕生日記事の後にすぐ書く予定が、またしてもちょっと間が空いてしまいました。


娘の誕生日が近づくにつれ、また暫く会っていない産みの母のことがとても気になるようになった。私は、産みの母は内輪の誕生日パーティには来たくないだろうけれど、産んだ娘の誕生日なのだから連絡するべきだと思っていた。でも夫は、誕生日が彼女にとって非常に辛い思い出でトラウマになっているかもしれないから、こちらから連絡するのが良いことなのかどうなのか分からないと言う。
そう言われると私も迷ったけれど、この一大イベントを無視しているのもおかしいと思い、ギリギリまで考えてからやはり連絡しようと決めた矢先、タイミング良く産みの母の方からメッセージを送って来た。娘の誕生日の2日前だった。
仕事で少し遠くの街に滞在しているけれど、週末は一時帰宅するので娘に会えないだろうか、とのことだった。こちらから連絡しようと決めてはいたものの、戸惑いもあったので、産みの母の方から連絡して来てくれた事は正直とても嬉しかった。


そして天気の良い土曜日の午後に、彼女の家の近くの公園で会う事になった。3ヶ月ぶりの面会だった。屋外での肉体労働でこんがりと日焼けした産みの母は、早速娘を大切そうに抱えて、とても嬉しそうだった。前回会った時、娘は産みの母に抱かれるや否や泣き出してしまったのに、この3ヶ月ですっかり人見知りしなくなり、最初だけちょっと不安そうな表情で私たちを見たけれど、すぐに慣れてご機嫌で抱かれていた。
面会は今回も大体1時間くらいだった。
産みの母は何も言わないけれど、どうしても会いたくて娘に会っていても、凄く辛いんだと思う。それできっといつも1時間から1時間半で、自分から「そろそろ帰らないと。」と言うのだ。


産みの母は娘への誕生日プレゼントを用意していた。
空気を入れて膨らませる幼児用のプールと、服が一枚入っていた。そして“LOVE”と書かれた小さなカードに、産みの母の名前と共に産みの父親の名前も添えられていた。


私たちが日本に帰国中、産みの毋からフェイスブックへの友達リクエストがあった。少々驚いたけれど、数日後にリクエストを受け入れ友達になり彼女のプロファイルを見た時に、娘の産みの父親と寄りを戻していた事を知った。ショックだった。彼に付きまとわれて、「警察に連絡する。」とまで言っていたけれど、結局彼の押しには勝てなかったのだと思った。そして、一人ぼっちの産みの母は孤独に耐えられなくて、愛していると言って抱いてくれる唯一の人物である彼とは、どうしても離れる事が出来ないのだ。例えどんなに酷い仕打ちを受けても...前回会った時、カレッジに通い易いから引っ越すのは止めた、と言っていたけれど、引越しを止めた本当の理由は産みの父との寄りが戻っていたからだったのだ、と思った。

前の面会の時、大学でビジネスを学びたいと爽やかに語っていた産みの母だったが、毎回会う度に希望が変わるので今回も変わるのかなと予想していたら、その通り、今回は「将来は何か社会の役に立つ事をしたい。例えばソーシャル・ワーカーとか、、、」と言っていた。自分があんなに憎んでいたソーシャル・ワーカーになりたい、と言いだしたのはかなり意外だった。やはり本当はまだ何をやりたいのか分かっていないのだろうな、と思う。でもそれはそれで良いと思う。まだまだ若いし、色んな経験を積んでいつかやりたい事を見つける事が出来れば良いのだから。それよりも、道を外さずに、娘が誇れる産みの母でいて欲しいと思う。


産みの母を家まで送って行ったら、産みの父が家の前の階段に座っていた。でも彼は携帯をいじっていて、ちらりとも私たちの方へ目を向ける事は無かった。私たちが戻って来た事は、目の前に車を停めて外で別れの挨拶をしていたのだから気がついていたはず。自分の血を受け継いだ娘がすぐ目の前に居るのに、全く興味を示さない父。彼は彼女が妊娠した時から、子供にはまだ全く興味が無いようだったし、きっと今も殆ど感心は無いのだろう。
娘が私たち以外の夫婦の元で育つ事など、今はとても想像出来ない。でもふと、あの時(魔の10日の終了2日前)娘が産みの両親の元に返されていたら、この子の人生は全く違うものになっていたのだ、と考える事がある。自分に全く感心のない父親と、年中喧嘩する両親、喧嘩の度に暴力を振るわれる毋親の元で育つ娘を想像するだけで、悲しくなった。そして私は、産みの母が感情的になりながらも一歩のところで思いとどまってくれた事に、改めて感謝するのだった。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ