産みの母との面会 7

娘の1歳の誕生日記事の後にすぐ書く予定が、またしてもちょっと間が空いてしまいました。


娘の誕生日が近づくにつれ、また暫く会っていない産みの母のことがとても気になるようになった。私は、産みの母は内輪の誕生日パーティには来たくないだろうけれど、産んだ娘の誕生日なのだから連絡するべきだと思っていた。でも夫は、誕生日が彼女にとって非常に辛い思い出でトラウマになっているかもしれないから、こちらから連絡するのが良いことなのかどうなのか分からないと言う。
そう言われると私も迷ったけれど、この一大イベントを無視しているのもおかしいと思い、ギリギリまで考えてからやはり連絡しようと決めた矢先、タイミング良く産みの母の方からメッセージを送って来た。娘の誕生日の2日前だった。
仕事で少し遠くの街に滞在しているけれど、週末は一時帰宅するので娘に会えないだろうか、とのことだった。こちらから連絡しようと決めてはいたものの、戸惑いもあったので、産みの母の方から連絡して来てくれた事は正直とても嬉しかった。


そして天気の良い土曜日の午後に、彼女の家の近くの公園で会う事になった。3ヶ月ぶりの面会だった。屋外での肉体労働でこんがりと日焼けした産みの母は、早速娘を大切そうに抱えて、とても嬉しそうだった。前回会った時、娘は産みの母に抱かれるや否や泣き出してしまったのに、この3ヶ月ですっかり人見知りしなくなり、最初だけちょっと不安そうな表情で私たちを見たけれど、すぐに慣れてご機嫌で抱かれていた。
面会は今回も大体1時間くらいだった。
産みの母は何も言わないけれど、どうしても会いたくて娘に会っていても、凄く辛いんだと思う。それできっといつも1時間から1時間半で、自分から「そろそろ帰らないと。」と言うのだ。


産みの母は娘への誕生日プレゼントを用意していた。
空気を入れて膨らませる幼児用のプールと、服が一枚入っていた。そして“LOVE”と書かれた小さなカードに、産みの母の名前と共に産みの父親の名前も添えられていた。


私たちが日本に帰国中、産みの毋からフェイスブックへの友達リクエストがあった。少々驚いたけれど、数日後にリクエストを受け入れ友達になり彼女のプロファイルを見た時に、娘の産みの父親と寄りを戻していた事を知った。ショックだった。彼に付きまとわれて、「警察に連絡する。」とまで言っていたけれど、結局彼の押しには勝てなかったのだと思った。そして、一人ぼっちの産みの母は孤独に耐えられなくて、愛していると言って抱いてくれる唯一の人物である彼とは、どうしても離れる事が出来ないのだ。例えどんなに酷い仕打ちを受けても...前回会った時、カレッジに通い易いから引っ越すのは止めた、と言っていたけれど、引越しを止めた本当の理由は産みの父との寄りが戻っていたからだったのだ、と思った。

前の面会の時、大学でビジネスを学びたいと爽やかに語っていた産みの母だったが、毎回会う度に希望が変わるので今回も変わるのかなと予想していたら、その通り、今回は「将来は何か社会の役に立つ事をしたい。例えばソーシャル・ワーカーとか、、、」と言っていた。自分があんなに憎んでいたソーシャル・ワーカーになりたい、と言いだしたのはかなり意外だった。やはり本当はまだ何をやりたいのか分かっていないのだろうな、と思う。でもそれはそれで良いと思う。まだまだ若いし、色んな経験を積んでいつかやりたい事を見つける事が出来れば良いのだから。それよりも、道を外さずに、娘が誇れる産みの母でいて欲しいと思う。


産みの母を家まで送って行ったら、産みの父が家の前の階段に座っていた。でも彼は携帯をいじっていて、ちらりとも私たちの方へ目を向ける事は無かった。私たちが戻って来た事は、目の前に車を停めて外で別れの挨拶をしていたのだから気がついていたはず。自分の血を受け継いだ娘がすぐ目の前に居るのに、全く興味を示さない父。彼は彼女が妊娠した時から、子供にはまだ全く興味が無いようだったし、きっと今も殆ど感心は無いのだろう。
娘が私たち以外の夫婦の元で育つ事など、今はとても想像出来ない。でもふと、あの時(魔の10日の終了2日前)娘が産みの両親の元に返されていたら、この子の人生は全く違うものになっていたのだ、と考える事がある。自分に全く感心のない父親と、年中喧嘩する両親、喧嘩の度に暴力を振るわれる毋親の元で育つ娘を想像するだけで、悲しくなった。そして私は、産みの母が感情的になりながらも一歩のところで思いとどまってくれた事に、改めて感謝するのだった。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

1歳になった娘

暫くご無沙汰になってしまいました。毎日なかなか時間が取れないまま、ゲストが泊まり来たりバケーション旅行に出かけたりで、結局ずるずると、最後のアップから2ヶ月以上も経ってしまいました。娘はもう13ヶ月になってしまい、今更なのですが、記念すべき1歳になった時の記録を書いておきたいと思います。



7月10日、娘がついに1歳の誕生日を迎えた。
産まれて6時間後に病院で始めて会ってから、1年が経ったのだ。
振り返ると1年はあっという間だった。しかし同時にやっとここまで来たんだな、と、1年前の事を思い出す度に懐かしいと共にとても感慨深い。

6ヶ月を過ぎてから、それまでと比べて急に一日が過ぎるのが早く感じるようになった。娘の誕生日である10日が、毎月毎月やたらすぐに来てしまい、娘は6ヶ月からあっという間に12ヶ月になってしまった。


6ヶ月から始めた離乳食も順調に進み、7ヶ月にはもうトロトロより少し固めにしても何でもぱくぱく食べてくれるようになった。お座りが出来るようになってから、身の周りにより強い興味を示し、『こうしたい、されたい』という欲求もどんどん出来て、私を見て甘えてぐずったり、自分が面白いと思った時にしか笑顔を返さなくなった。抱きあげるとぎゅっと抱きつくようになったのもこの頃。小さな手に力を入れて、体全体で私にキュッと抱きつく娘、毋としての至福の瞬間だった。


8ヶ月、私の言う事をごく簡単な事であればある程度理解出来るようになった。言葉をかけて反応があると、ますます楽しい。これまで「うぐうぐ」ばかり言っていたのが、別の発声も出すようになった。毎日必死に前にのめって這おうとするが、ハイハイには至らず。しかし日々座らせておいた場所から、お尻と足を使ってどんどん移動するようになった。
ミルクを1滴も残さず飲む娘は、離乳食も好き嫌い無く必ず全て残さずに食べた。始めての食べ物でも少し嫌でも、口に入れた物は決して吐き出す事はなかった。そして、食べさて貰っているだけでは気が済まなくなり、自分でスプーンを奪ったり手づかみで食べたがるので、掴み易いものに限って手づかみ食べも開始した。上手に食べ物を掴んで自分で口に入れた時、娘は満面の笑みを見せた。


9ヶ月になり、離乳食を3回食にした。12ヶ月で哺乳瓶卒業を目指し、4回の授乳の内1回を哺乳瓶からシッピーカップへ切り替え。6ヶ月以降何度か使ってみたけれど、あまり上手くいかなかったので止めていたシッピーカップ。暫く止めてから再開すると、意外な程無抵抗に飲んでくれた。
この頃、何か気に入らない事があると、思い切り反抗的な奇声をあげるようになった。それと同時に、これまで本当に問題なく眠ってくれていた娘が、夜ベッドに寝かしつけて部屋を立ち去ろうとした瞬間から、大泣きするようになった。これが、『分離不安』というものなのだろうか。とにかく私が背を向けて離れて行くのを見るのは堪え難いらしい。殆どのアドバイスが、なだめても良いが、抱き上げてはいけないという。しかしあまりにも尋常ではない泣きっぷりに様子を見に行くと、両腕で上半身を支え、この世の終わりかと思う程涙でぐちゃぐちゃ、時には鼻血まで出している。ここまで泣かれると可哀想過ぎてなだめるだけではいたたまれず、ついつい抱き上げてしまうのだった。
遊びも日増しに活発になった娘は、オモチャを箱から全部出すことが日課になり、それが済むとコーヒーテーブルの下にある自分の本を全て引っ張りだし、暫く大人しく本をめくって過ごした。娘は食べる事の次に本が好きなようだった。
そして9ヶ月も残り少なくなって来た4月29日、娘がついにハイハイを始めた。私たちが日本に帰国中の時だった。


一旦這う事が出来るようになると、めきめきと上達が早い。10ヶ月になった娘はとにかく這い回った。そして、ハイハイが出来るようになってから、急に賢くなったように感じた。これまで赤ちゃんだったのが、ちゃんと考えて自分の意思で行動する幼児に向かって急激に変化しているようだった。シップーカップも哺乳瓶も自ら支えて飲むようになったし、自分でスプーンに乗った食べ物を口に運んだり、両手を合わせてたたいたり。これまで存在を全く無視していた猫に対して急に強い興味を示すようになった。そして、ベビーカーを見るとお出かけと分かって大喜びし、いつの間にか人見知りも殆どしなくなった。
シッピーカップでの授乳を1日1回から2回に増やす。これまで掴み易い物に限っていた手づかみ食べ、意を決して本格的にやらせる。州から貰った離乳食ガイドの表紙の、顔中食べ物だらけの赤ちゃんの写真を見て『冗談でしょう?』と思ったけれど、本格的にやらせてみて始めて、どうやって食べ物が顔中に広がるのか、その理由も良くわかった。
10ヶ月半ばになると、あまりオモチャで遊ばなくなった。その代わり、一日の遊びの時間の殆どを本をめくって過ごすようになった。時には1時間くらい、大人しく座って本をめくっている。赤ちゃんは集中力が持続しないと聞いていたが、本をめくっているときの娘の集中力はまるで大人のようだった。
そして、そろそろ11ヶ月が近づいて来た6月7日、娘が椅子に掴まって立ち上がった。


11ヶ月、シッピーカップを一日3回、コップでミルクを飲む練習も開始。
這う、立ち上がるだけでなく、伝い歩きもするようになった。まだ2ヶ月くらいの頃から、私が「足、足」と足を持って歌って遊んでいたせいか、11ヶ月のある日、「足」と言ったら娘は自分の足を持ち上げた。その後続けて「手」、「耳」と教えていったら、すんなりと覚えてしまった。運動量が増えると、脳が急速度で発達するのだろうか。
この月、娘は言葉に強い関心を示し、ついに「ママ」と言うようになった。そして「ダダ」「ブシュ」「シャー」「ジス」など、赤ちゃん語が増えていった。まだ完全に「ママ」の意味も分かっていないようだったけれど、近い将来私に向かって「ママ」と呼んでくれる日が待ち通しかった。
7月9日、娘に最後の哺乳瓶でミルクを与えた。


そして7月10日、娘は産まれてから一度も風邪を引かずに1歳になった。「赤ちゃん」から「トドラー」への変遷の第一歩。
今日から全てシッピーカップとコップの練習に切り替えると同時に、ついに粉ミルクを卒業し、授乳の全てを牛乳に。哺乳瓶は徐々に減らして行った効果か離乳の時期だと自分で分かっていたからか、娘は哺乳瓶への執着は全く見せなかった。そして、牛乳も怪訝そうながらしっかりと飲んだ。食事も3食バランス良く何でも食べてくれるので、もう特別に離乳食は作らずに私たちと同じ料理を薄味で与え始めた。
毎月毎月新しい変化を見せてくれる娘。
ちょっと前までやっていた行為は新しい発達と共に消えて行くのが、なんとも寂しい感じはする。赤ちゃんが普通に発達しているわけだから、喜ぶべきなんだろうけれど、そうやってどんどん過ぎ去って行って成長発達して行き、いつの間にか大きくなってしまうのだろう。

多分年齢的に、私たちは二人目は諦めるのだと思うけれど、あの生まれたての赤ちゃんを育てる体験をもう一度してみたい、と、娘がどんどん成長して行くと共に強く思う様になった。もしかすると、皆こうして2人目、3人目が欲しいと思うのだろうか。勿論兄弟姉妹を作ってあげたいというのもあるだろうけれど、あっという間に成長して失われて行く、あの無垢で小さくて可愛い赤ちゃんを育てることを、もう一度体験したくて産む人も多いんじゃないかと思う。そして、それは本能なんだと思う。
赤ちゃんは10ヶ月までは体がどんどん大きくなって、10ヶ月以上は少し成長速度が落ちるらしい。ある程度体を大きく丈夫にしておいて、脳の発達の方に集中するのだろう。 人の成長の不思議を、この目で見て体験出来る事は非常に貴重な事である 。そして、そんな貴重な体験が出来る自分はなんて幸運なんだろう。

これまでの一年は全てが娘との始めての日々だった。そしてこれからの毎年、私たちには“過去の娘とのこの日”という思い出があるのだ。


お誕生日おめでとう。
産まれた時から暫くはママやパパの存在にはあまり気がついていなかったのが、いつの間にかママとパパを覚えてくれて、よく食べて良く眠り、すくすくと元気に可愛く成長してくれてありがとう。
これからも楽しく家族3人で暮らして行こうね。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

養子縁組ピクニック

少し前のことになるけれど、今月養子縁組エイジェンシー主催のピクニックに参加した。
このピクニックは毎年恒例になっていて、既に縁組を済ませた家族の交流以外、待ちリストの夫婦や産みの親などのサポートも兼ねていて、エイジェンシーに関わる誰もが参加出来るものだった。私たちは待ちリスト中、時間が経つに連れなるべく養子縁組の話題から遠ざかって暮らしたいと思う様になったのもあり、傷口に塩を塗る様な気がしたこの手のイベントには、一度も顔を出したことがなかった。今回始めて参加を決めた理由は、他の養父母に会ってみたかったのと、娘が歳の近い赤ちゃんと会えるかもしれないと思ったからである。
産みの親の参加も可能ということで、私もちらっと娘の産みの母を誘ってみようかと考えたりもしたけれど、彼女は『魔の10日』の一件以来、エイジェンシーとの信頼関係を無くしてしまい、電話をするのも避けているようなので、誘わないことにした。

当日はお天気も上々で、ピクニック日和。参加者は100名以上で、エイジェンシーが参加者登録を行った時に同時にボランティアで全ての準備や食べ物、飲み物等の必要なものの担当も募ったので、食べ物が足りなくなるなんていう事も無く、とてもスムーズだった。
ピクニックといっても、ランチはコミュニティー・ホール内に用意され、食べ終わったら外で皆それぞれ時間を過ごす、という感じだった。
それから、小さい子ばかりでなく、もう結構育った子達やティーンの子を連れた家族も来ていて、縁組後も毎年参加している人も居るようだった。


私たちが娘をブランコに乗せていると、隣に娘よりも数ヶ月大きな女の子を連れている、40代のお父さんがやって来た。
その女の子はとっても可愛い美人さんだった。産みの毋が出産前に彼らを選んではいたものの、エイジェンシーが連絡をしないうちに急遽産む事になり、インスタント・プレイスメント(緊急でマッチング無し)のような状況だったらしい。決断するのに2日しかなかったと言っていた。
そして、もう40代なので二人目は諦めて、その女の子一人で良いと言っていた。二人目は諦める可能性が強いものの、まだ迷いがある私たちにとって、その言葉は重く感じられた。やはり、40、しかも半ばを過ぎているのだから、二人目は諦めた方が懸命なのかもしれない、と。


他の人とも話してみたかったので、食後は夫と娘を連れて屋内外をウロウロし、娘の歳に近い小さな子を連れている夫婦を見つける度に話しかけてみた。

双子を縁組した夫婦、産みの母が再び妊娠し、結局同じ毋から産まれた子供2人を養子にした夫婦、もう閉経したと思ったら妊娠していたという、年配の女性が産んだ子を養子にした夫婦、とっても可愛いイヌイットの女の子を連れた家族は、その子に瓜二つな産みの母も一緒に来ていた。

同じプロセスを得て家族になる養子縁組だが、本当に皆それぞれに感動的な物語があるのだなあと思った。
縁組を通して子供に恵まれる過程は、本当に1つ1つ異なるけれど、ここに集まって来た子連れ家族に共通しているのは、皆この上なく幸せであるということだった。
私たちは避けて来たけれど、待ちリスト中の夫婦で参加した人達は、このポジティブなエネルギー浴びて、「私たちもきっといつか夢が叶う」ということを確認するために来ているような気がした。


そして帰り間際、今回の縁組でとってもお世話になった、私たちの担当だったソーシャル・ワーカー、Mにも会うことが出来た。
Mは多くのに囲まれて忙しそうだったけれど、私たちが娘を連れて近づくと、すぐに立ち上がって駆け寄って来てくれた。
娘の成長ぶりに驚く彼女に、産みの母のことや、日本に帰国した事など話した。子供を手放した後のカウンセリングもあるらしいが、産みの母のはあれから一度も連絡をして来ない、とMは少し寂しそうにつぶやいた。二人の信頼関係が壊れてしまったのは本当に残念だけれど、時が経ち凍てついた関係が自然に融ける日が来ることを願う。そして、今回産みの母を誘わなかったのは正解だったな、と思った。

Mの居たグループに、私たちが受けた最初のワークショップで一緒だった夫婦が居た。夫が、『自己紹介で最初に泣き出した人で、そのあと自分も含めて全員次々泣いた。』というので彼女の事を強い印象で覚えていた。私は誰が最初だったかというのは忘れていたのだが、自分自身も泣いたし、連鎖泣きは覚えていた。彼らは2歳の女の子を連れていた。子供がいくつの時に縁組したのかわからないけれど、私たちよりも先だったのだろう。

あれから4年以上、あの時泣いていた夫婦が、お互いに笑顔で子供を連れて再会出来るなんて、なんだか感動的だった。



にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

始めての子連れ帰国:私の家族との対面

4月から5月にかけて、始めて家族3人で日本へ帰国した。
昨年の同時期に夫婦二人で帰国した時には、一年後に子供を連れて帰国する事になるなんて予想もしていなかった。そして、始めて娘と会う私の家族がどのような反応を示すのか、楽しみでもあり不安でもあった。


周りの誰もを一瞬で幸せな気持ちにさせてしまう様な素敵な笑顔の産みの母にそっくりの顔立ちで産まれて来た娘は、彼女の魅力的なその笑顔も受け継いでいた。そして娘の笑顔はまるで漫画のように完璧だった。
始めて見る日本の家、私の両親との初対面で不安そうにしていた娘も、あやされて少し慣れるとすぐに得意の笑顔を振りまく様になり、父も毋も娘の描いた様な笑顔にあっという間に魅了されてしまった。ちゃんと触れ合ってくれるのかと心配していた弟すら、目が合う度にニコニコと微笑みかけられ、すぐに娘の虜になってしまった。
「赤ちゃんをこんなに間近で見たのは始めてだ。」という弟。他人との交流が出来ない弟が、血の繋がらない姪である娘にこんなにも興味を持ってくれて、娘の安全を誰よりも心配し、可愛いと言って毎日会うのを楽しみにしてくれた。それはとても意外だったけれど、私にとって本当に嬉しいことだった。娘の無垢な微笑みが、弟の頑な心を溶かしている様だった。


私の毋は3人の子供を産んだ。
息子二人、そして娘(私)一人。息子一人は10代のころから心の病気を煩い、もう一人の息子は産まれた時から精神面に障害を持っていた。結局二人とも自立することができないまま大人になり、結婚して子供を持つことも無く、多分今後も独身のまま、変わる事はないだろう。そして両親は唯一結婚した娘に孫を期待していたけれど、その娘は不妊だった。
親を喜ばせるために養子縁組を望んだ訳ではないが、結果として孫が出来た喜びを、両親にも味わってもらいたい、という思いは私の中に強くあった。

父は80歳、毋は73歳。養子縁組を考えていると打ち明けた時、割とすんなりと賛成してくれたけれど、そこまでして子供を持つ事も無い、と漏らしたこともある。待ちリストから3年半でいよいよ諦めかけたころも、ダメなら仕方が無いと、これまたすんなりと受け入れる様子だった。しかし、3人も子供を持ちながら、孫を一人も抱く事無くこの世を去ることを、両親は本当はとても寂しく思っていたと思う。

それでも、縁組成立した後におめでとうとは言ってくれたものの、私が何度写真を送っても、二人から「可愛い」という言葉は一切出て来なかった。昔の人だから、それこそ”養子”ということ自体に、日本の古い養子制度のイメージしか持っていない。しかも孫となる子は外国人で、写真でしか見た事が無いし、見ても私たちには似ていない。実感が沸かないのは当然だった。
しかし写真を送り続けること4ヶ月目で、始めて毋から「可愛くなったね、これまでどうしても二人の子供だという事がピンと来なかったけれど、やっと最近自分にも孫が出来たんだな、と思える様になった。」と打ち明けられた。産まれて2日目から育てていた私ですら、心から愛しいと思えるまで2ヶ月かかった。写真でしか見た事が無い血の繋がらない娘に対し、実際に会うずっと前の4ヶ月で、可愛い“孫”が出来たと思って貰えたのは早い方なのかもしれない。
私の毋は嘘はつかない。その毋がそう言ったのだから、心から可愛いと思ってくれている証拠だった。

それから毎回写真を送る度に「可愛い」と言うようになった父と毋が、始めて娘に会える私たちの帰国を、これまでになく楽しみにしてくれて、帰国中は日増しに’おじいちゃん’と’おばあちゃん’の顔になっていった。そしてもうかなり重くなった娘をとても嬉しそうに抱き、自分たちにも孫が出来た事を心から喜んでくれた。
娘が覚えていてくれる歳になるまでは、死ねないね、などと言いながら。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

産みの母との面会 6

携帯電話を無くして私たちと連絡が取れなくなっていた産みの母に、共通の知り合いを介して連絡先を伝えると、すぐに彼女からメッセージが来た。
最初に一言、”娘に会いたい”と来るのかと思ったら、娘はどうしているのか、と遠慮がちに訊いて来た。
もうすぐ日本に始めての子連れ帰国をする私たちは、なんとか帰国前に産みの母と会いたいと思っていたので、その事を伝えると、是非会いたいと言う。そして産みの母は、過去にも利用したカフェを面会場に選んだ。


産みの母と娘が会うのは3ヶ月半ぶりだった。
最後に会った時5ヶ月半だった娘は、9ヶ月になっていた。一目で娘の成長ぶりにビックリした様子の産みの母は、とても元気そうだった。すぐに娘を抱かせてあげたけれど、娘は産みの母の腕に抱かれるやすぐに泣き出してしまった。
この頃娘は夫と私以外の他人に抱かれるとすぐに不安そうな表情を浮かべ、私たちに助けを求める様に泣き出してしまう。その事を伝えると、少し残念そうに産みの母は娘を夫の腕に返した。

血の繋がった母親で顔もとても良く似ているのに、娘にとっては目が開いた時にそこに居て、毎日世話をしてきた私たちが両親なのだ、そう思うと嬉しかったが、同時になんとなく奇妙でもあった。ハタから見たら、産みの母と娘が親子なのは明らかだったけれど、娘の態度から私たちと親子であるのも明らかだった。


暫く連絡が無い間、産みの母がまた何かトラブルに巻き込まれたのではないか、ちゃんと目標に向かって前向きに生きているのかと気にしていたけれど、実はトラブルどころか、彼女は着々と良い方向へ進んでいるようだった。
今年アメリカの某有名大学に、特別スピーカーとして訪問出来るかもしれない可能性や、彼女が通っているユースの施設でティーンの先導者(辛い境遇から立ち直り、しっかりと頑張って生きていることから)に抜擢された事、そして来年には大学に入りビジネスを勉強したいという夢を語ってくれた。
始めて妊娠している彼女に会った時、まだ何をしたいのか分からなくて、とりあえず興味がある美容師になりたいから、出産が済んだらそのための学校へ行こうと思っていると言っていた。
出産後しばらくしてからは、カレッジで技術方面の勉強をしようかと思っていると打ち明けてくれたけれど、やはり自分が何をしたいのか分からない様子だった。
そして今回は大学でビジネスを学びたいと言う。多分まだはっきりとやりたい事が分からないままなのかもしれないけれど、毎回目標が少しずつ高くなっているのが、私には嬉しかった。それだけ、彼女が自分の人生に自信が付いて来たということなのだと思った。


自分の目標を明るく話してくれた産みの母だが、同時に私たちと娘に会うのは毎回辛いと漏らした。産んで間もなくの頃とは辛さが違うし、とても会いたいのだけれど、会う度に別れるのが辛いし、まだ娘を手放した苦しみからは完全に解放されていないと言った。そして自分の産んだ娘がどんどん他人になっていってしまう、その事が産みの母にとってはまた辛いようだった。
それでも別れ際、産みの母は私に「あなた達が幸せで、私もとても嬉しい。」と言ってくれた。

会う度に、しっかりとしていく産みの母。彼女はきっといつか良い母親になるだろう、また、人間としても自分が苦しんだ分、人の苦しみを理解出来る立派な女性に成長するのではないかと思う。彼女を見ていると、私たちの娘もきっと素敵な女性に成長してくれるのではないかと思えて来る。そして、そうなるように私たちがしっかりと育て、支えて行きたいと思う。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

待ちに待った手紙

昨日、ついに裁判所からの養子縁組最終決定通知が届いた。
予定では1月半ば、しかし最終決定が出された日付は3月27日となっていた。

どうしてこんなに遅れてしまったのか分からない。子供一人を授かるのに、本当に長い長い道のりだった。
正式な手紙の最後に、娘が産みの母の姓からこの決定以後夫の姓に変更される、と記載されていた。これで晴れて娘は書類上も正式に100%私たち夫婦の子となったのだ。もう誰も娘を私たちの手から連れ去ることは出来ない。感動で胸がいっぱいだ。

と、同時に思う。さて、二人目をどうしようか。
もう娘一人で良いと思う気持ちと、兄弟か姉妹がいたら良いだろう、と思う気持ちが行ったり来たりで、結局4月になっても決められないままでいる。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ

最終決定と産みの母と娘

時が経つのはなんて早いんだろう。
ブログをアップしないでいるうちにも、あれよあれよと日が過ぎていってしまった。
娘はあっという間に8ヶ月になり、来週にはもう9ヶ月になる。
しかも、養子縁組の最終決定が出ないまま、4月になってしまった。2月頭に受け取った手紙によれば、遅くても3月初めには決まるはずだったのに、何故なのだろう。
書類はどこかに埋もれ、忘れられてしまったかの様である。


最終決定が出されないと、いつまでも娘の出生証明書は産みの親のまま、産みの親とも共同保護者のまま、そして出生証明書の両親の名前が書き換えられないと、ソーシャル・インシュランス・ナンバー(SIN)を取得できない。SINを取得できないと、政府からのベネフィットも受けられない。普通ならば、産まれてすぐに手続きができるのに、養子だとこういう部分に大分差がついてしまう。家族としては我が家に来た時から普通に動き出しているけれど、書類上はすんなりといかない。
そして、最終決定が出ないと二人目の申込は出来ないため、二人目の決意にも影響が出るのだ。


娘はもう私たちの子なのだと分かっているのに、最終決定がでないと、いつこの幸せが壊されてしまうのではないか、何か問題が発生しているのではないか、という恐怖心がいつも心の隅にあって、心から安心出来ない。ある日誰かが突然やって来て、娘を連れ去ってしまうのではないかという気がかりから、早く早く解放されたい。
9ヶ月一緒に暮らして来て、もうこの子無しでは生きる目的も希望も無いとさえ思えるので、いかなる理由でも失うことを想像するだけで具合が悪くなってしまう。私は産んでいないけれど、子供を失う毋の気持ちとはこのようなものなのか。想像だけでも辛いのだから、子供を手放した産みの母はどんなに辛かったことだろう、と改めて思う。彼女の強さに対して敬意の気持ちを忘れてはいけない。そして、感謝の気持ちも。

そんな産みの母、3月も結局彼女からのコンタクトは無いままだった。12月の末以来丸3ヶ月、この間、時折夫とどうしているんだろう、トラブルに巻き込まれているのでなければ良いがと気にしていたと同時に、本当にあの12月の面会が彼女が前を向いて歩き始めるきっかけになったのだろうと嬉しく思ってもいた。
しかし今日、共通の知り合いから、産みの母が私たちのコンタクトナンバーを無くしてしまって連絡を取れないでいたことが分かった。
早速こちらから携帯にメールを送ってみるが、何故か送信されず。携帯電話を変えたのか、それではこちらも連絡の取り様が無し。
4月はなんとか連絡を取って会いたいとずっと思っていたので、なんとかしなくては。


色々な気がかりをよそに、娘は元気いっぱい。
毎日良く遊び、良く眠り、よく食べる。もう、一カ所に座っているだけではもの足りず、お尻と足と腕を使ってコロコロと位置を変えている。ハイハイまであと一歩。動き出したら私もますます忙しくなるんだろうけれど、娘の成長や発達がとても楽しみで、そんなに早く時間が過ぎ去って欲しくないのに、早く歩く姿を見たい、言葉を発して欲しいと思ってしまう。


にほんブログ村 海外生活ブログ 国際生活へ にほんブログ村 家族ブログ 養子縁組へ  人気ブログランキングへ